立体造形会社の日本美術工芸の社長挨拶





 昭和55年創業以来、平成を通り過ぎ令和へと時代が移り変わる中、40年の月日の流れは今考えればあっという間の時の流れでした。
 創業当時の私は岡本太郎アトリエを退社したばかりで、作家的意識が強く会社としても名ばかりで創作工房があればそれでいいというような考え方をしていました。従業員も5~6名でほとんどがアルバイトの方々でした。
 その時代に製作した作品がH57mの会津慈母観音であり、須賀川市長より依頼のあったH2mの牡丹姫です。本来抽象作品をやっていこうと考えていたのですが依頼者の歩んだ歴史的背景が強く、その意志を具現化する手助けになればと製作を引き受けました。当時はマネジメントも製作も一手にやっていましたから、徹夜作業も多く、時間の足りない日々が十数年つづいたような気がします。
 技術的には粘土原型が主体で石膏凹型後FRP 作品にして塗装、が工程の主流でした。設立から2年くらいたった頃、大型のテーマパークがオープン。付き合いのあった樹脂商社を通して、そのパークを運営する会社から製品素材開発の依頼がありました。メンテナンスが大変なため素材をかえて耐久性をあげてほしいという依頼です。バックステージ倉庫に実験室を構え、ポリエステル樹脂、ウレタン樹脂、アクリル樹脂、様々な材料との格闘作業が続き製品化、取付工事がはじまっていきました。そんな中、担当課長が実験棟にあらわれ「村田さんのとこは株式会社だよね、従業員は労災はいってんの︖」ときかれ、全員美大アルバイトですと答え、答えた自分が情けなくなりました。すでにこの時点で、工事に10数名の人員を抱え、工場に5~6名が常駐していたからです。
 会社組織としてしっかり整備していかなければならない。個人的な期待度から会社組織としての期待度に、社会的要求が変わっていたのです。社長としての自覚が必要だったのです。社長としての意識改革はこの辺あたりからです。
 メンテナンス工事を中心に会社としての骨格ができつつあるころ、又担当課長より呼び出しがあり「村田さんは美術系だよね」ハイ「イヴェントが始まるんだけどやってみない︖」早々に担当デザイナーとの打ち合わせがはじまりました。
 主にフォトロケーションといわれるキャラクターを中心に展開される固定ステージとでも言いましょうか、当時は表現方法で暗中模索をきわめ、見積前の打合せが相当回数に及びました。喧々諤々、担当課以外との各課調整、社内、外注先を含めた調整が数週間に及び、最終的予算調整、受注後工事がはじまれば又、製作の暗中模索が続きました。
夜間の設置工事が終了したあと、デザイナーの笑顔、工事担当の笑顔、課長、部長の笑顔がありました。かけがえのない時間を共有したことへの絶対的感謝、そして誇り。
 その後パークのイヴェントは30 数年におよび現在にいたっております。
 振り返ってみると、この体験は現代経営学の父とよばれているドラッカーの提唱する理論を完全に体験しているということに、後日気が付きました。
 又、日本では近江商人より発せられた哲学「三方良し」。 スティーブン・R ・コヴィー博士「7 つの習慣」から広がったWIN-WIN の関係の実践でもありました。
 日本美術工芸株式会社は現在80 数名を擁する会社へと成長しています。造形の製作会社としてはかなり大所帯になってきています。私が体験して得たこれらの貴重な理念を、それぞれの個性をもっている社員の基本的理念として、社業に反映させていきたいとかんがえています。

日本美術工芸株式会社
代表取締役 
造型会社の日本美術工芸の社長サイン